事例:大規模組織が多様な働き方に対応した労務管理体制を再構築した事例 - 制度設計、システム活用、運用改善のアプローチ
はじめに:多様な働き方の進展と大規模組織における労務管理の課題
近年の技術革新や社会情勢の変化に伴い、多くの企業でリモートワーク、フレックスタイム制度、サテライトオフィス勤務など、多様な働き方が導入されています。特に大規模組織では、従業員の働く場所や時間の選択肢が増えることで、生産性向上や従業員満足度の向上が期待される一方で、労務管理の複雑化という新たな課題に直面しています。
部署や職種によって働き方が大きく異なること、多数の従業員がいること、全国あるいはグローバルに拠点が点在することなど、大規模組織ならではの特性が、従来の画一的な労務管理手法を困難にしています。具体的には、正確な労働時間把握、適切な休憩・休日取得の管理、安全配慮義務の履行、ハラスメント防止策、情報セキュリティの確保、そしてこれらを支える法令遵守体制の維持などが、多様な働き方のもとでより一層重要かつ複雑になっています。
本記事では、「変革事例図鑑」のコンセプトに基づき、ある大規模組織が多様な働き方の進展に対応するため、労務管理体制をどのように再構築し、これらの課題を克服したかの具体的な事例を紹介します。制度設計、システム活用、運用改善という多角的なアプローチに焦点を当て、大規模組織が働き方改革を推進する上で直面する労務関連の課題への示唆を提供することを目的とします。
事例組織の概要と導入前の課題
本事例の組織は、数万人の従業員を抱える国内の大規模サービス業企業です。本社機能に加え、多数の支社、営業所、店舗、コールセンターなど、多様な事業拠点と職種が存在します。働き方改革の一環として、全社的にコアタイムなしのスーパーフレックスタイム制度と、職種・業務内容に応じて柔軟なリモートワークを導入することを決定しました。
取り組み開始前の主な労務管理上の課題は以下の通りでした。
- 労働時間の正確な把握: 従来の勤怠管理システムはオフィス出社を前提としており、リモートワーク下での始業・終業時刻の記録や、休憩時間の取得状況の把握が困難でした。特に、深夜・早朝や休日の労働、サービス残業の見えにくさが懸念されました。
- 多様な働き方への制度対応: フレックスタイム制度やリモートワークに関する社内規程が整備途上であり、適用範囲や例外規定などが不明確な箇所がありました。また、従業員が場所を問わず安心して働けるよう、労災保険の適用範囲や安全配慮義務に関するルールの明確化が求められていました。
- 管理職の負担増と知識不足: 多様な働き方をする部下の勤怠管理、業務進捗把握、心身の健康状態の把握など、管理職の役割と責任が増加しました。一方で、新しい働き方に対応するための労務管理に関する知識やスキルが十分に備わっていない管理職も少なくありませんでした。
- コミュニケーションと連携不足: リモートワークの増加により、部署内や関係部署間でのコミュニケーションが変化し、報連相の遅れや、労務関連情報の共有漏れが生じやすい状況でした。これにより、潜在的な労務リスクの早期発見が困難になる懸念がありました。
- 法令遵守リスク: 労働基準法や労働安全衛生法など関連法令は複雑であり、多様な働き方における例外規定や解釈も多岐にわたります。全従業員・全拠点で一律かつ正確な法令遵守を徹底することが、管理体制の不備により困難になるリスクがありました。
これらの課題は、従業員の健康を害したり、労使間のトラブルを引き起こしたり、企業の信頼を損なう可能性を秘めていました。
目的と具体的な取り組み内容
本事例組織は、これらの課題を解決し、多様な働き方を安全かつ健全に推進するために、以下の目的を設定しました。
- 法令遵守の徹底と労務リスクの最小化: 労働基準法をはじめとする関連法令を遵守し、多様な働き方下での労務リスク(長時間労働、健康障害、ハラスメント、情報漏洩など)を最小限に抑える体制を構築する。
- 労務管理業務の効率化と正確性の向上: 煩雑化しがちな勤怠管理や申請業務を効率化し、データに基づいた正確な労働実態の把握を可能にする。
- 従業員の安心感とエンゲージメント向上: 働く場所や時間にかかわらず、安心して業務に取り組める環境を整備し、ワークライフバランスの実現とエンゲージメント向上を支援する。
- 管理職のマネジメント力強化: 新しい働き方に対応した労務管理知識やスキルを管理職に習得させ、適切なマネジメントを可能にする。
これらの目的達成のため、以下の具体的な取り組みが実施されました。
1. 制度設計の見直しと明確化
- スーパーフレックスタイム制度のルール詳細化: コアタイムなしの制度設計に伴う労働時間の清算期間単位(例: 1ヶ月、3ヶ月など)や、時間外労働、深夜労働、休日労働に関する明確なルールを定めました。特に、システム上の勤怠記録と実際の労働時間との乖離を防ぐためのガイドラインを整備しました。
- リモートワーク規程の改訂: 適用対象者、リモートワーク頻度、通信費・光熱費などの費用負担ルール、情報セキュリティポリシー、緊急時の対応、労働時間中の離席ルールなどを詳細に規定しました。また、労災保険に関する政府解釈や判例を参考に、働く場所に関わらず安全配慮義務を果たすための会社の責任範囲と従業員の遵守事項を明確にしました。
- ハラスメント防止規程の強化: オンラインでのコミュニケーションツールを通じたハラスメント事例も想定し、定義や相談窓口、対応プロセスを明確化しました。
2. 労務管理システムの導入・改修
- クラウド型勤怠管理システムの導入: 場所を問わず、PCやスマートフォンから打刻可能なクラウド型勤怠管理システムを全社導入しました。GPS情報(任意設定)やPCのログオン・ログオフ時間との連携機能を活用し、労働時間の実態をより正確に把握できる仕組みを構築しました。
- 休暇・申請ワークフローシステムの統合: 休暇申請、残業申請、経費申請など、各種申請業務を統合したワークフローシステムを導入しました。これにより、ペーパーレス化と申請・承認プロセスの可視化・効率化を図り、労務関連データの集約・分析を容易にしました。
- 労働時間データの自動集計・分析機能の活用: 導入したシステムが持つ労働時間データの自動集計機能やアラート機能を活用し、長時間労働の兆候がある従業員や、特定の部署における残業時間の傾向などを早期に把握できる体制を構築しました。
3. 運用改善と教育・研修
- 労務管理ルールの周知徹底とFAQ作成: 改訂した規程や新しいシステムの使い方に関する説明会を全社で開催しました。従業員向けに、多様な働き方に関する労務上の疑問点(例: リモートワーク中の体調不良時の対応、中抜け時間の扱いなど)を網羅した詳細なFAQを作成し、イントラネットに掲載しました。
- 管理職向け労務管理研修の実施: 新しい働き方下での労務管理に特化した研修を全ての管理職に対して実施しました。労働時間管理、安全配慮義務、ハラスメント防止、部下の心身の健康状態把握、勤怠システムの使い方など、実践的な内容に重点を置きました。eラーニング形式と集合研修形式を組み合わせ、理解度に応じたフォローアップを行いました。
- 人事・労務部門と現場の連携強化: 各部署に労務管理に関する相談窓口担当者を置き、人事・労務部門との定期的な情報交換会を実施しました。現場で発生している課題や疑問点を吸い上げ、全社的なルールや運用改善に反映させる仕組みを作りました。
- 産業医・保健師との連携強化: リモートワーク下での従業員の健康管理について、産業医や保健師と連携し、相談しやすい体制を整備しました。健康診断結果やストレスチェックの結果と、労働時間データなどを総合的に分析し、ハイリスク者への早期対応を可能にしました。
導入プロセスと直面した課題・克服策
本事例組織は、これらの取り組みを約1年半かけて段階的に実施しました。全社的な制度変更とシステム導入を伴う大規模なプロジェクトであったため、様々な課題に直面しました。
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課題1:全社へのルールの浸透と理解: 従業員数が多いこと、多様な働き方をする部署・職種があることから、新しいルールやシステムの使い方に関する情報が全従業員に行き渡りにくいという課題がありました。また、ルールの解釈や適用について、部署間で認識のずれが生じることもありました。
- 克服策: 一方的な通達だけでなく、オンライン説明会と質疑応答の機会を複数回設けました。特に、店舗や工場などPC利用が少ない現場従業員向けには、スマートフォンでのシステム操作方法を解説する動画マニュアルを作成したり、現場リーダーを通じた個別説明会を実施したりしました。FAQは定期的に更新し、従業員からの質問をもとに内容を拡充しました。
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課題2:システム導入に伴う現場の混乱: 新しい勤怠管理システムへの移行や、他のシステムとの連携において、操作方法に関する問い合わせが殺到したり、システムエラーが発生したりすることがありました。特に、システム操作に慣れていない従業員や、PC環境が限定的な従業員からは抵抗感を示す声もありました。
- 克服策: システムベンダーと密に連携し、想定されるトラブルのリストアップと対応マニュアルを事前に準備しました。社内には専任のヘルプデスクチームを設置し、迅速な問い合わせ対応を行いました。システム導入前に一部の部署でトライアル期間を設け、そこで得られたフィードバックを全体の導入計画に反映させました。操作マニュアルは視覚的に分かりやすいものを複数作成し、従業員がアクセスしやすい場所に配置しました。
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課題3:管理職の負荷と意識改革: 新しい働き方下での部下マネジメントに加え、労務管理に関する責任と業務が増加した管理職からは、負担増に対する不満や、従来の働き方への回帰を求める声も聞かれました。労務管理を単なる「手続き」ではなく、「部下の健康とパフォーマンスを支える重要な役割」と捉える意識改革も必要でした。
- 克服策: 管理職向け研修を継続的に実施し、労務管理知識だけでなく、オンラインでのコミュニケーションスキルや部下のエンゲージメント向上に関する研修も組み合わせました。また、管理職専用の相談窓口を設置し、個別のケースに関する専門家からのアドバイスを受けられるようにしました。優秀な管理職の事例を共有したり、労務管理を適切に行っている管理職を評価する仕組みを検討するなど、ポジティブな側面からのアプローチも行いました。
導入効果と成功要因
これらの取り組みの結果、本事例組織では以下の効果が見られました。
- 法令遵守リスクの低減: 労働時間管理の精度が向上し、特にリモートワーク下での長時間労働の兆候を早期に発見できるようになりました。これにより、未払い残業リスクや健康障害リスクが軽減されました。
- 労務管理業務の効率化: 勤怠管理システムやワークフローシステムの導入により、申請・承認プロセスが効率化され、人事・労務部門および管理職の管理業務時間が削減されました。集約されたデータを活用することで、各種レポート作成や状況分析が容易になりました。
- 従業員の安心感向上: 新しい働き方に関するルールや会社の方針が明確になったことで、従業員が安心してリモートワークやフレックスタイム制度を利用できるようになりました。相談窓口の設置により、労務上の不安や疑問を気軽に解消できる環境が整備されました。
- データに基づいた働き方の改善: 勤怠データや申請データを分析することで、部署や職種ごとの働き方の実態が可視化されました。これにより、特定の部署における残業時間の偏りや、有給休暇の取得状況などを把握し、働き方に関する課題の特定と改善策の検討に活かせるようになりました。
本事例の成功要因としては、以下の点が挙げられます。
- 経営層の強いコミットメント: 働き方改革と労務管理体制の再構築が、単なる流行ではなく、企業の持続的な成長と従業員のウェルビーイングにとって不可欠であるという経営層の強い意志が、プロジェクト推進の大きな力となりました。
- 現場との丁寧な対話とフィードバック: 一方的に制度やシステムを導入するのではなく、説明会や意見交換会を通じて現場の従業員や管理職の声を聞き、課題や懸念を吸い上げながら進めたことが、制度の浸透と運用の定着につながりました。
- システムと制度・運用の連携: 単に新しいシステムを導入するだけでなく、システムを活用するための制度設計の見直しや、システムを効果的に使いこなすための運用改善・教育をセットで行ったことが、実効性を高めました。
- 専門家との連携: 複雑な労務関連法令の解釈や、多様な働き方における具体的なリスク対応について、弁護士や社会保険労務士などの外部専門家と連携し、正確かつ適切な判断を下せたことが、法令遵守リスクの低減に貢献しました。
他の組織への示唆
本事例は、大規模組織が多様な働き方を推進する上で、労務管理が単なるバックオフィス業務ではなく、従業員の安全・健康、そして企業のレジリエンスに関わる経営課題であることを示しています。他の大規模組織が働き方改革を進める上で、以下の視点が重要であると言えます。
- 労務管理を働き方改革の基盤と位置づける: 新しい働き方を導入する際には、同時に労務管理体制がそれに適応できるかを検証し、必要な制度、システム、運用の見直しをセットで行う必要があります。
- 部署・職種の多様性に対応できる柔軟な設計: 一律のルール適用が難しい場合は、事業特性や職務内容に応じた柔軟な制度設計や運用方法を検討する必要があります。ただし、基本的な法令遵守はどの部署・職種でも徹底する必要があります。
- テクノロジーの戦略的活用: 勤怠管理システムやワークフローシステムなど、多様な働き方に対応したテクノロジーを導入することで、労務管理の正確性と効率性を向上させることができます。ただし、システム導入は目的ではなく、あくまで円滑な労務管理を実現するための手段であると捉えることが重要です。
- 管理職の役割と支援強化: 新しい働き方下での労務管理において、管理職は重要な役割を担います。適切な知識・スキルを習得させるための研修に加え、心理的な負担を軽減するためのサポート体制や相談窓口の整備が不可欠です。
- 継続的な改善とモニタリング: 働き方や関連法令は常に変化します。労務管理体制も一度構築すれば終わりではなく、労働時間データや従業員からのフィードバックを継続的にモニタリングし、課題を発見次第、制度や運用方法を柔軟に見直していく姿勢が求められます。
まとめ
本記事では、ある大規模組織が多様な働き方の進展に伴う労務管理の複雑化という課題に対し、制度設計、システム活用、運用改善という多角的なアプローチで体制を再構築した事例をご紹介しました。正確な労働時間把握、法令遵守の徹底、管理業務の効率化、そして従業員の安心感向上といった効果が見られました。
この事例から、大規模組織における働き方改革の成功には、従業員の多様性を踏まえたきめ細やかな制度設計、テクノロジーを活用した効率的かつ正確な管理体制、そして現場との対話を通じた丁寧な運用改善が不可欠であることが分かります。特に、人事・労務担当者にとっては、法的な専門知識に加え、テクノロジーや組織内の多様な実態を理解し、経営層や現場と連携しながら最適な解決策をデザインしていく能力がより一層求められています。
自社で多様な働き方を推進される際には、本事例を参考に、労務管理上の潜在的な課題を事前に洗い出し、戦略的な体制整備に取り組んでいただければ幸いです。